言葉をつなぐ「世界語」の夢
――UTX形式で用語集を作ろう
世界語は可能?
ちょっと昔の話をしましょう。私は、中学生のころ、「世界語」のようなものがあれば世界の人間は互いに理解できるのではないか、という夢想をしていました。中国語やフランス語などもかじりはじめていました。やがて高校生のときに国際学校UWCに留学して、単一の世界語でまとめられるほど言語は単純ではなく、またそもそも一つにまとめることで文化の多様性が損なわれるということも、実感として分かってきました。しかし、そのずっと後で翻訳の仕事にかかわるようになって、UTXのような対訳用語集は、「言語と言語をつなぐもの」であり、相互理解を助けるという意味では一種の「世界語」の役割を果たせるのではないか、と考えるようになりました。用語の対訳のそれぞれのペアは、翻訳単語単位であるといえます。これが、単語レベルでの翻訳の基礎です。
文や文章のレベルで考えれば、単語の置き換えだけでは翻訳になりません。しかし「ある単語をどう訳すか」、「単語の訳し方」は翻訳者にとって基本的かつ重要な問題です。今回は、対訳用語集のファイル形式である共有ユーザー辞書フォーマットUTXを改めてご紹介します。UTXは、非常にシンプルですが、翻訳の現場の経験とノウハウが活かされた実用的で即戦力になるファイル形式です。第16回「翻訳知識の共有と再利用」もあわせてご覧ください。
用語集がないと大問題……
用語集がないと、どのような問題が起きるでしょうか。上図は、あるソフトの例です。ここでは「保存」と「保管」は本当は同じ意味なのですが、ユーザーは確実に混乱するでしょう。翻訳作業をアマチュアのボランティアに依存して、翻訳品質管理が放置されるとこのようなことになります。開発にいくら予算を注いでも、翻訳にお金をけちったせいで不適切な翻訳だらけだと、せっかくの機能が埋もれたままです。これはコストの浪費です。オープンソースでも、用語管理の手法がもっと真剣に議論されないかぎり、たとえ表面化していない場合でも、このような問題が無数に存在します。
これはもう一つの例です。[Picasaに保存]の原語は、"Locate in Picasa"です。アルバム ソフトの仮想的なアルバムで、写真の元ファイルを表示する、という意味であり、「Picasaに保存」という訳ではまったく意味が通じません。意味が不明ですので、せっかくのこの機能はおそらくほとんど使われることはなかったはずです。正しくは、意訳して[Picasaのフォルダ内に表示]などと訳すべきでしょう。
文芸翻訳でも用語集は重要です。先日発売された『ユーロマンガ』第3号で、私が担当した『ラパス―血族の王国』でも、ある登場人物の名前の表記を、「アケーバ」にするか「アケバ」にするかが問題になりました。本来なら些細な表記の問題に時間を取られることなく、文芸的な推敲にじっくり時間を掛けたいところです。しかし、そうするためにこそ、最初にしっかり表記を決めて、用語集を作ることが必要なのです。
UTXとは
UTXは、アジア太平洋機械翻訳協会(AAMT)で策定されたシンプルな用語集の形式です。実際の翻訳作業で、翻訳ソフトや翻訳支援ツールとともに使用することを想定しています。AAMTのUTXサイトでは、詳しい紹介があり、辞書、パンフレットのダウンロードもできます。2009年11月には、法令用語日英標準対訳辞書が公開されました。また同じ月に、中国での国際会議LISA China Focusで、AAMTメンバーである富士通研究所の大倉氏からUTXについての発表が行われます。標準化団体であるLISAと協力しつつ、国際標準化を目指しています。
なぜUTXが必要なの?――すぐに使える用語集
UTXには「そのまますぐに使えるピュアな訳語」が含まれています。現実に存在する用語集は、コメントや語義の解説、異表記、別訳語、品詞、頭字語などのさまざまな情報が、しばしば訳語と混在しています。これらの付加情報は参照用として役立ちますが、合理的な翻訳をめざす翻訳工学の観点からは、これでは訳語としてはそのまますぐに使うことができず、さまざまな修正をしなくてはなりません。
社団法人日本外科学会の外科学用語集の一項目を見てみましょう。
| idiopathic hypertrophic subaortic stenosis 〈IHSS〉 |
特発性肥大型大動脈弁下〔部〕狭窄〔症〕,特発性肥大(肥厚)性大動脈弁下狭窄〔症〕《HOCMと同義》 |
このように複数の表記があれば、どれが適切か選ぶ必要がありますし、頭字語やコメントは削除する必要があります。要するに「そのまますぐに使える」形からはほど遠いのです。
UTXでは、この訳語をすぐに使える一定の形に整形、つまり正規化します。UTXに整形したときの訳語の例は、以下のようになります。
| idiopathic hypertrophic subaortic stenosis |
特発性肥大型大動脈弁下部狭窄症 |
一語一義の原則に基づいて、訳語はもっとも適切な一つにしぼられ、余計な情報はありません。このシンプルな形式であれば、さまざまな用語管理ツールを使って用語適用を自動化できます。コメントや語義の解説は、訳語そのものとは区別して、別の欄に入れることもできます。
一つの原語に対して説明なしに複数の訳語があると、どちらを使うか迷います。明確な使い分けをする正当な理由があれば、項目を分割して、コメント欄で「どう使い分けるか」をきちんと説明します。
使っても大丈夫なの?―ライセンスの問題
インターネットではさまざまな用語集が公開されていますが、著作権上の使用許可、ライセンスが不明のため、どのような形で使ってよいのか分からないことが多いようです。改変や再配布ができるかがあいまいなため、せっかくの翻訳知識をまとめて使うことができません。UTXでは、クリエイティブ コモンズを基本とするライセンスを明記して、安心して使えるようにしています。用語集は、各業界や学会で標準化を進めることで、より的確な翻訳が可能になります。訳語を整備して公開するのは、翻訳を依頼する側の利益に他ならないのですが、この点がもっときちんと理解されたらと思います。「こう訳してほしい」言葉は、その言葉を使う相手の手にきちんと渡ってはじめて意味を持ちます。企業や団体・組織では、用語集を公開することに抵抗を感じているところがまだ多いようです。「こう訳してほしい」という用語集があれば、中途半端な形ではなく、迷わずUTX形式で公開することをお勧めします。
UTXの計画では、特定のコミュニティーの中で使われる用語が、トップダウンとボトムアップの両方向から決定されてゆくオンライン コミュニティー環境の構築も構想されています。翻訳が必要とされている日本で、翻訳についての実際的研究の価値が過小評価されているのは残念ですが、UTXがそれを改善するきっかけになることを祈っています。
さて、シャドウイングや新しい英語試験、英語の壁を乗り越える方法など、ご紹介したいことはまだまだたくさんあるのですが、今回で本連載は終了となります。長い間ご愛読ありがとうございました。ぜひバックナンバーもご活用ください。『通訳翻訳ジャーナル』での拙連載「デジタル翻訳者の道具箱」は継続していますのでそちらもどうぞ。またどこかでお会いしましょう!
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